第7話 潜入 再び
捲簾は車から降りると足早に裏門から入り
警備員が数名いる裏庭を抜けて
勝手口から自分の屋敷に入った。
表から自宅に入ったことなど一度も無い。
香港時代に比べて自宅の警備の数は格段に増えた。
治安が悪いこのご時世に治安警察の長官など
勤めていれば当然と言えば当然の事だった。
常に最大限の注意を払って、誰の言葉もまず疑ってかかる。
どこに反日活動家が潜んでいるかなど分かったものではない。
他の暗殺された官僚達がそうであったように、
気を抜けば襲撃され、あっという間に命を落とす。
難儀なこった。捲簾は他人事のようにそう思った。
そんな緊張感とは裏腹に、屋敷に入ると2階の客間から
女達の笑い声がした。
どうせまた妻が大東亜のホテルで友達と食事でもして
その流れでうちに来て麻雀でもしてるのだろう。と捲簾は察した。
しかし今日はいつもと違って、そこにかすかに若い男の声が混じっている。
客間に顔を出してみると、玉面公主とその友人が麻雀卓を囲んでいるのは
いつもと変わりなかったが、玉面公主の後ろには3年前の
香港時代、使用人として働いていた八戒が、いた。
「あら、今日は早いのね。」
玉面公主が手元の牌から目を離さずに言う。
「ああ。でもまたすぐ出る。」
「そう。ねえ貴方覚えているでしょう。香港で使用人として
うちで働いていた八戒よ。今日、大東亜のホテルで偶然会ったの。」
八戒が恭しくお辞儀する。
「旦那様は僕のことなどお忘れでは?」
そう言って微笑む八戒は、3年前はまだ学生のようであったのに、
今では仕立ての良いスーツに身を包んで目の前にいる。
しかし女のように綺麗な顔立ち、白い肌、翠色の瞳は何も変わらない。
「いや、覚えてる。上海には、どうして?」
「父の会社を手伝うために行商をしているのです。
香港ではもう商売は難しくて。」
「そうそう、さっき聞いたらホテル暮らしをしてるって言うから
上海にいる間は是非うちで暮らしなさいと言ったのよ。
あなた、いいでしょう?うちは部屋が余っているんだから。」
「おう。好きにしな。」
「・・・じゃあ、お言葉に甘えて。」
そう言って、八戒が昔と変わらない朗らかな笑顔を見せる。
捲簾は3年前の八戒の唇の感触が、密着した細い腰が、
鮮明に思い出されて、わき上がる気持ちを押し殺した。
そうして八戒は運良く捲簾の屋敷で暮らすことになった。
行商の傍ら空いた時間があれば、玉面公主の麻雀の相手をしたり
買い物や食事のお供をしたりして過ごした。
行商と言っても、実際に本当に物を売っている訳ではない。
悟浄と密かに接触しては屋敷や捲簾の様子を報告したり
活動資金を受け取ったりしている。
八戒が捲簾の屋敷に来てから数日たったある日のことだった。
朝、八戒が食事をとりにダイニングに向かうと、
既に食事を済ませた捲簾が新聞を読んでいた。珍しく中国服を着ている。
そこに外行きの中国服をまとった玉面公主が現れた。
「あら、あなたがこの時間に家にいるなんで珍しいわね。」
「まあな。もう少ししたら出る。そう言うお前は?」
「友達と京劇を見て食事に。」
「八戒も一緒か?」
「いいえ。僕は今日はお供せずに映画へ。
せっかく上海に来たから映画を見たくて。」
「そーか。じゃあ楽しんで来な。」
捲簾はいつもの軽い調子で言った。
映画に行くというのは本当だった。
今日はそこで悟浄と接触する。
外は雨で肌寒そうだ。行商ではないのでカジュアルな
ジャケットを着て八戒は屋敷を出た。
しばらく歩くと、目の前で車が止まった。
運転席から顔を出したのは、捲簾の運転手。
「お乗りください。旦那様が映画館まで送れと。」
八戒は少し緊張したが、ここで断っても変なので
平静を装ってそのまま車に乗り込んだ。