第6話 3年後
悟浄はようやく悟能の居場所を突き止めた。
悟能があの場から逃げ出して以来、会っていない。
あの日から3年。
上海にある古びたアパートで、
親類とおぼしき女性と一緒に住んでいた。
同級生を装って(実際同級生なのだが)悟能の事を訪ねると
悟能の叔母を名乗るその女性は、悟能は上海大学に通っており
ちょうど先程家を出たばかりだと言う。
礼を言って駆け出すと、ほどなく、悟能とおぼしき青年が
通りを歩いているのが見えた。
戦争はいまだに終わらない。
人が、街が、国が、曇天のように暗い影を落として
それでも細々と生きている。
通りに行き倒れた人間が転がっていても誰も何も言わない。
街行く人たちの顔はどれも暗く陰鬱だが
久々に見る悟能はその色が人よりも濃いような気がした。
しばらく見つめていると、さすがに悟能がこちらに気づいた。
3年ぶりに会ったというのに驚くでもない。何の感情も顔に浮かんでいない。
悟能も立ち止まってこちらを見つめている。
逃げ出されないだけましか、と思いながら悟浄は悟能に近づいた。
悟浄は、抗日活動の支援者のひとりが経営している
とある茶屋に悟能を誘った。
戦争中にこの茶屋で一服などする者はおらず、
中はがらんとしており話をするのに都合が良い。
席につくと悟浄は話を切り出した。
「俺らは全然気づかなかったけど、香港での俺らの
行動は、全部監視されてたんだ。」
「監視・・・?」
悟能は眉を潜めた。
「そう。国民党の一派だ。あの日、お前が消えた後で
そいつらが現れて後始末して俺らを逃がしたんだ。
・・・お前は、どうしてた?どうして上海に?」
「僕は・・・英国にいる父親から、英国までの旅費を払えないから
中国に留まって上海の叔母と一緒に住めと言われて。
この数年は、自分が虚しく思えて・・・勉強ばかりしてました。」
そう言うと悟能は弱々しく笑った。
その生気の薄い顔が3年間の悟能の苦悩を物語っているようで。
悟能ひとりに負担をかけておいて何の成果も出せず
最後まで悟能を守ることができなかった悟浄は
かける言葉を探したが、結局言葉が出て来ない上に
かける資格もないと思って、本題に入る事にした。
「実はな、悟能。俺や天蓬、あの時のメンツ全員が
まだ捲簾抹殺の機会を伺ってる。国民党の援助を受けてだ。
捲簾は今、汪精衛の特務機関の長になった。
表向きは治安警察だが日本軍の手先だ。
抗日を呼びかける知識人を殺している。
3年前俺らは失敗した。うかつに近づけない。
そこで、お前を捜してたんだ。」
そう言うと悟能はうつむき気味だった顔を上げる。
その緑色の瞳を見つめて「協力してくれるか?」
と言うと悟能はわずがに、頷いた。
悟能の瞳は、先ほどとは違って幾分生気を
取り戻しているように見えた。
後日、悟能は悟浄に連れられて
抗日活動家のアジトのひとつへ赴き、そこで天蓬とも再会した。
天蓬は相変わらず抗日思想が強く、今や国民党幹部からも厚く信頼され、
抗日活動家の中でもリーダー的存在となっていた。
「お久しぶりです、悟能。
これから貴方は、任務の準備として『八戒』の経歴を
完璧に覚えてもらいます。スパイとしての基本的な技術もね。
その前に。これを。」
と、青酸カリのカプセルを悟能に差し出した。
「任務に就く前に服に縫い付けておいてください。
仮に任務が失敗しても、絶対に敵の手には落ちてはいけません。
捲簾は狡猾で非常に用心深い男です。
一度疑われたら命が無いと思ってください。
いいですね?」
天蓬の一方的なもの言いに圧倒されているのではないかと
心配した悟浄は、脇から
「心配すんな。万が一の為だって。俺だって裏方として協力するし。」
と言ったが、悟能は毅然と
「分かりました。必ずやり遂げます。」と言い放ち、カプセルを受け取った。
悟能の表情には、数日前には無かった
強い決意のようなものが現れていた。
まるでこの3年間抱き続けていたものを
何かに昇華させたような。
それから数週間。悟能は叔母の家を出て任務の準備に明け暮れた。
そんな悟能に、悟浄もつきっきりで手伝う。
八戒は『香港陥落後、父親の商売がますます悪化したため
上海に渡って行商をしている』という設定になっている。
その詳しい経歴、口座番号や上海では入手困難な商品等々
よどみなく言えるように記憶、
そして銃の解体・組み立てから錠の破り方等の技術も学んだ。
そして、潜入を開始する日が来た。
「悟能、今日から貴方は八戒です。検討を祈ります。」
天蓬がそう言うと、悟能は力強く頷いた。
「玉面公主は毎週水曜日になると大東亜のホテルで
友人達と食事を楽しみます。偶然を装って再会してください。」
悟能は『貿易商の息子』風にスーツを着込むと
行商のための商品を詰め込んだトランクを持って、
大東亜のホテルへと向かった。