第5話 忍耐と虚無
捲簾とキスした日から、1週間がたとうとしていた。
捲簾からは、何も連絡はない。
今まで通り捲簾の屋敷に行って、使用人として仕事をこなす日々。
「八戒」としての振る舞いにも慣れて、玉面公主に気に入られて
円滑に情報収集できている一方で、素の悟能は疲弊していく。
あの日から、天蓬からの『訓練』は続いていた。
何より辛いのは、天蓬と悟能が暗殺の為とはいえど
そういう事をしているというのを、他の仲間が知ってる事だった。
天蓬は「あなたの判断に任せる」などと言っていたが
悟能が体で捲簾を誘惑して暗殺を実行する事は、
やはり1週間前のあの日からメンバーの総意として決まっていたのだ。
一体いつまで続くのか。
潜入も、天蓬との訓練も、仲間達からの顔色を伺うような、
哀れむような視線も。悟浄だけは部屋に閉じこもる悟能を気遣うが
悟能にとってはそれすらも苦痛だった。
悟浄の目などまともに見られるはずがない。
それでも捲簾から連絡が来て、うまく誘い出して
暗殺を決行できれば。
全てが終わる。国に貢献できる。
こんな毎日から解放される。自分も、悟浄も。
そんな希望をたよりに、悟能は捩じれそうになる心を
必死で落ち着かせた。この1週間。
なのに。
ある日、仕事から帰って来ると、家の電話がせわしなく鳴っていた。
捲簾からの誘いかもしれない。あの時のように。
悟能は急いで受話器を取った。
しかし、相手は玉面公主な上に、話を聞いて悟能は絶句した。
捲簾が大臣に昇進することになり
突然上海に帰る事になったという。
しかも捲簾と玉面公主は
明日朝の飛行機で早々に上海へと発たなくてはならないので、
明日、他の使用人と一緒に屋敷の荷物を片付けて欲しい
ということだった。
上海?帰る?明日の飛行機?
悟能は、動揺しながらやっとで一言言った。
「・・・・それは、急ですね。」
「ええ。急でしょう。上海から急に通達が来て。
とにかく今すぐ来いというのよ。貴方や你にも
最後に挨拶くらいしたかったのだけれど。」
それから悟能は、昇進のお祝いを直接言いたいとか
準備を手伝うとかなんとか理由をつけて
捲簾邸にむかおうとしたが
準備で忙しいからの一点張りで、すべて退けられた。
「いいわ。気持ちだけ受け取っておくわ。」
まだ何か方法が。悟能は頭をフル回転させた。
「でもこんなにお世話になったのに・・・。
明日、見送りだけでも・・・。」
「いいのよ。私達も貴方には良くしてもらって本当に助かったから。
これ以上迷惑をかけたくないの。」
取り付く島も無い。結局それ以上食い下がることもできず、
玉面公主と別れの挨拶をして、終わった。
仲間達も悟能の電話から様子を察し、皆動揺している。
「悟能の正体に気づいたんじゃないのか?」
「いきなり上海行きなんておかしいだろう!?」
「気づいたなら捲簾の性格上、今頃僕らはしょっぴかれて
尋問にかけられて死んでますよ。」
「今すぐ殴り込みに行けばまだ間に合う!」
「バカ!屋敷に配置されてる警備の数、覚えてねえのかよ!?
さんざ議論して屋敷での暗殺は断念したじゃねえか!」
捲簾が、香港を去る。捲簾暗殺計画は失敗に終わった。
何の成果も出せないまま。
悟能は受話器を置くと、項垂れたまま、しばらく立ち上がれなかった。
それから。
悟能は、捲簾の屋敷で指定された荷物だけ上海に運ぶ手配をし
あとは指示に従ってひたすら処分した。
それも数日で完了して、使用人としての仕事は終わった。
『八戒の家』に帰宅すると、仲間達が暗い表情をしながら、
持ち込んだ荷物の片付け等、家を引き払う準備をしていた。
この数日間。虚無が悟能を支配していた。何も考えられない。
逆に今までの苦労は何だったのかと考えてしまえば
頭がどうにかなってしまうだろう。
悟能はひとり、小さな庭で酒を片手に煙草を吸っていた。
仲間達は後ろめたさからか、ショックからか、
片付けを手伝わない悟能を誰も咎めなかった。
しかし、不運はそれだけでは終わらなかった。
「へえ、ここが八戒君の家ねえ。」
急に声がした。庭の入り口を見ると你健一が立っている。手には拳銃を持って。
悟能の背筋が、凍った。仲間達が何事かと庭に飛び出して来る。
「家の商売が上手くいかないから大学辞めて働きに出てるって
聞いてたけど、実際は学生の抗日活動の真似ごとだったわけね。」
「どうして・・・」
「まあ色々思う所あってね。後をつけさせて貰ったんだけど・・・。」
そう言いながら悟能との距離を縮めていく。
悟能に銃口を向けて、その場にいるメンバーに向けて言い放った。
「さあてこのネタいくらで捲簾に売ろうか?
みんな牢獄行きだね。いや死刑台行きかな?
自分の命が惜しかったらそれ相応の口止め料を払わないと。
もちろん、八戒君は・・・一番高いだろうねえ。」
そう言って悟能の顔を見据えた、その時。
パン!と音がした。
手を撃たれた你健一がグラリと崩れ、持っていた拳銃が吹っ飛ぶ。
天蓬が暗殺用にと準備していた銃で撃ったのだ。
「我々はこの国の為に、国の裏切り者を倒そうとしていただけです。
それを脅迫するとは。貴方も売国奴と見なし制裁します。」
見た事も無いような冷徹な目をして言い放つと、
仲間達が你健一を取り囲んだ。
「ちょっ・・・待て!」
暗殺失敗で不完全燃焼を起こした仲間達の闘志が、爆発した。
悟能は、目の前の光景から目を背けた。
耳を塞いでも聞こえて来る罵声。うめき声。生々しい音。
しばらくして視線を皆の方に恐る恐る向けると
仲間達の足下で、血まみれの手がだらりと伸びていた。
悟能は一層動揺して、無意識に紅い髪を探した。
你健一を取り囲む仲間達の中に、居て欲しくなかった、紅い髪。
とっさにその紅い目が合う。
上気した肩。返り血。手の中の真っ赤な包丁。
悟浄も何も言わず悟能を見ている。
悟能は、駆け出した。
体が勝手に。駆け出してた。
家を飛び出して走って走って。
どこに向かっているのかも分からない。
とにかく逃げた。
何かから。誰かから。