第11話 捲簾

ある日の夜。捲簾から呼び出された悟能は、
迎えの車に乗って、ある繁華街へと向かった。
日本人向けの店が数多く立ち並ぶ街。
車の窓から見えるのは、日本軍とみられる男達、
その男に寄り添う華やかな着物を着た女。

車を降ろされ指定された料亭に入ると
店主らしい日本人の女が「お待ちしてました。
どうぞお上がりください。」と悟能を促した。
女の後をついて廊下を歩いてゆく。
日本風の建物。
どこからか流れて来る音楽も日本のもの。
障子越しの部屋から聞こえる喧噪も日本語。
日本まみれの場所。

ほどなくして、通された部屋に捲簾は居た。
畳の座敷には膳がずらり並べられているが、
会食はとうに済んだのか部屋には捲簾ひとり。
いつものスーツ姿で座布団の上にあぐらをかいて、日本酒を煽っていた。

べんべん、と弦をつま弾く音と日本の歌が、他の座敷から聞こえて来る。
「悲しい歌だ。まるで飼い主を失った犬みてえだ。そう思わねえか?」
皮肉めいてそう言う捲簾の顔は、今日も疲弊している。
悟能が隣に座ると、捲簾は続けた。
「米国の参戦で戦争はもうすぐ終わるだろう。
なのに厚化粧をして、今だこうして乱痴気騒ぎだ。」
そう言って虚空を睨む。

悟能は、捲簾の胸の内を初めて知った。
疲れきったその横顔に何も言えずに居ると、引き寄せられてキスされた。

唇に触れるだけの、優しいキス。
悟能の頬に添えられた手。その優しいくせに冷たい手を
ぎゅっと握ると徐々に冷たさが和らいでくる。

悟能は捲簾の肩にもたれ掛かって、聞いた。
「どうしてこんなところに?」
「仕事でちょっとな。」
「僕は日本人相手に酌をさせられるのかと思いましたよ。」
と悟能が冗談を言うと
「お前に?まっさか。」
と捲簾が屈託なくケラケラと笑った。
笑うと、目尻が下がっていつもよりぐっと若く見える。
こんな気軽な会話は久しぶりだ。
香港で初めて食事した時のような。続けて悟能は言った。

「歌ってあげましょうか?僕の方がうまいですよ、きっと。」
「お前が?分かった、聞いてやる。」
捲簾は笑って、おどけたように言う。
悟能は座り直して「生涯歌女」を歌った。

天涯呀海角覓呀覓知音(天地の果てまで、知音を求めて)
小妹妹唱歌郎奏琴(私は歌を唄い、あなたは胡琴をかなでる)
郎呀咱們倆是一條心(愛しいひとよ、私たち二人の心はひとつ)

家山呀北望涙呀涙満襟(北のかなたの故郷を望み、涙にぬれる)
小妹妹想郎直到今(私はずっと、あなたのことを想っている)
郎呀患難之交恩愛深(苦難を共にした恩愛は深い)

人生呀誰不惜呀惜青春(人生よ、青春の時を惜しまない者があろうか)
小妹妹似線郎似針(私は糸で、あなたは針)
郎呀穿在一起不離分(針に糸を通したら二度とはなれない)

悟能の歌はよく通り、心地よく座敷に響いた。
普段の美しい声はそのままに、歌に優しい抑揚がついて。
最初はニヤニヤしながら酒を飲んでいた捲簾も
最後の方には真剣なまなざしで歌に聞き入っていた。

悟能は一通り歌い終えると、そんな捲簾に向き直りその手を握って
最後のワンフレーズを再び歌う。

小妹妹似線郎似針(私は糸で、あなたは針)
郎呀穿在一起不離分(針に糸を通したら二度とはなれない)

捲簾の腕が伸びできて、抱きすくめられる。
悟能はてっきりそのまま押し倒されるかと思ったが
捲簾は何も言わず、しばらく悟能を抱きしめたままだった。
まるで縋りつくように。

もし
もしも、
この人が党からも国からも時代からも解放されたなら。
すべてのしがらみから解放されたなら。

いつも、さっきのように笑ってくれるだろうか。
軽口叩いてくれるだろうか。

それは決して叶うことのない夢の世界。

その夢の中で、自分は。
この男の隣にいるのだろうか。

悟能も何も言わず、捲簾の暖かい胸に収まって
そんなことを夢想した。

 

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