第1話 勧誘
悟能は日本軍の中国侵攻から逃れ上海から香港に集団移住した学生のひとりだった。
集団移住といっても、家族は居ない。母親は早くに病で他界したし、
父親は英国で大学教授をしており、この戦争の混乱で、連絡すらままならない。
そんな中、香港大学で出会った悟浄に演劇部へ誘われて、愛国劇を演じることになった。
演技の経験など全くなかったが、仲間と一緒にひとつの舞台を
作り上げるのは楽しかったし、悟能の演技の反響も上々。
上演すればいつも盛況していて、それなりに、充実していた。
しかしある日。
愛国劇の反響を聞いた、抗日運動グループが
悟浄達演劇部に接触してきたのが、全ての始まりだった。
この抗日運動グループは悟浄達のように「劇で国への忠誠を訴える」なんてものではない。
親日派の人間へ執拗に嫌がらせしたり、暴力を振うなど、
その過激な活動は大学内でも有名だった。
そのリーダー、天蓬が「ある計画」に参加しないかと、
演劇部のメンバーを勧誘してきたのだった。
その計画とは。
この、抗日運動メンバーのひとりが、先日偶然同郷の知人と再会したのだという。
その知人は你健一といって、ある役人の元で世話人のような仕事をしており、
そこで使用人を募集しているのだが、誰か良い若者はいないかと訪ねられたのだ。
天蓬は演劇部の面々に対して、煙草の煙を吐きながら、こう言った。
「その役人というのが『捲簾』なのですよ。
奴は元々上海にいて、抗日組織の人間を次々に殺して来た人間です。
それがここ香港に異動してきて、今度は我々をつぶしにかかっている。
すでに数名の仲間が彼によって尋問を受け、無惨に殺されています。
しかし、これはあの売国奴を殺すチャンスです。
使用人として奴の懐に潜り込み、制裁を与える。
どうです?国を愛する者同士、手を貸してくれませんか?」
皆、国への厚い忠誠心は変わらない。
ただ、『殺す』だの『制裁』だのという、聞き慣れない
言葉を前にして演劇部の面々は一様に、黙った。
「愛国劇の上演よりも、国を捨て日本人の犬に成り下がった
奴らを殺す方がはるかに、国に貢献できると思いません?」
畳み掛けるように言う天蓬。
容姿の整った天蓬がすらすらと言うと、尚更残虐に聞こえた。
「俺は、参加する。」
意を決したように悟浄が言うと、
「俺も」「俺も」と悟能以外の演劇部員達は次々に声を上げる。
悟浄が、悟能を見つめて言った。
「悟能、どうする。無理強いはしないけど。」
悟浄は、戦争で兄を失っていて、人一倍反日感情が高い。
抗日運動グループなどに入ったら、
その身を削ってでも活動にのめり込んでしまうだろう。きっと。
今も、悟能を見つめる真っ赤な瞳には
真っすぐな決意が表れていて。
だから。
「僕もやります。」
その目をじっと見つめ返して悟能は言った。